はやおき


by kado-kayo
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<   2008年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

「インテリアデザインコンテスト」提出。

30日消印有効、とのことで郵便局の夜間受付でぎりぎりセーフ。
24時までやってるのね。知らんかった。
写真upは結果発表後。

与えられたスペースが一部屋、しかも現実的な案が求められたので、
小さいスケールだけを考慮に入れて進めた。
でかい建物より、身体スケールの範囲内の建物を考えるほうが楽しい。。。

次は「空間デザインコンペ」。
構想はまとまってきたので形に…
その前に、……スピー。
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by kado-kayo | 2008-06-30 22:31 | 建築

鉄塔

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昨日は久々に快晴。

この塔、ロシア構成主義みたいでいい。


…唐湊のくせにッ!!
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by kado-kayo | 2008-06-27 22:41 | 写真

空間から状況へ

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空間から状況へ
企画・編集:ギャラリー・間
出版:2001年

30代(当時)建築家たちによる展覧会の様子、そしてそれに付随した討論の記録。

7年後の今、彼らは”若手”を抜け出して、もはや中心的な位置にいる。
そういった、当時と今とのわずかな状況の違いを知りながら読むのがおもしろい。

この世代は、社会に対する反応のしかたが共通していると思う。
すでにできてしまっている都市に対して反抗的に立ち向かうでもなく、
かといって無条件に擁護するわけでもない。
現在の状況を悲観してあきらめているか、といえばそうでもない。
そして、意識的に開き直ってそうしているのではなく、
全く意識すること無く、都市を自然体で受け入れている。

それは都市は拡大していくものだ、という前提で建築を作っていた60年代とは明らかに違う。


…と書いてはみたものの、
まああたりまえのことだと思う。
生まれた時点が上の世代とは違うのだから。

小学生ぐらいになってからファミコンが出だした世代と、
生まれたときにはプレステがあった世代との差、みたいなものだと思う。
両者では生活における”テレビゲーム”の捉え方が全く違うと思う。
意識する対象ではなく、空気のような存在。

というわけで、さらに下の自分たちの世代からしてみれば、
都市の捉え方が議題になっている時点で違和感を感じる、という人も多いのではないだろうか。


世代論にはきりがないので、内容へ。
内容は素直に面白い。彼ら世代に教育を受けたかったなーとか思ったり。うちは古かった。。。

以下、興味深かった話。メモ程度。

遠藤秀平。
歴史の延長上で何かを始めるのではなく、もう少し原点に返って、即物的に建築を試みる。

阿部仁史・小野田泰明。
一万人という単位を、コミュニティー単位として重視するという考え方。

クライン・ダイサム・アーキテクツのインタビュー中の五十嵐太郎。
ポストペット・アイボ・たまごっちなどの「かわいい」が日本には多くあるが、
日本の建築家のデザインには意外にない。

→最近の傾向として、建築にも「かわいい」を持ち込もうとする動きがあるな(特に学生)、
と数年前との違いを感じた。僕らは「かわいい」の溢れるなかで育ったからだろうか。


最後に。もうひとつ共通するのは、みんな楽しげということ。
これは見習いたいね。
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by kado-kayo | 2008-06-22 12:35 |

住宅巡礼

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住宅巡礼
著者:中村好文
出版:2000年

建築家である著者が、海外の名住宅を訪ね綴った1冊。
奇抜な建築とは程遠い(著者がそういうのキライ)、まさに"住むための"住宅ばかり選ばれている。


恥ずかしながら知らなかった住宅がいくつもあった。
その中でいいな、と思ったもの。

アルヴァ・アアルトの「コエタロ」
マリオ・ボッタの「リゴルネットの住宅」
ルイス・カーンの「エシェリックハウス」

どれもプランがうまい。
動線・設備の収め方に無駄がない。
光の入れ方うんぬん以前に、そういった計画面がすばらしいと思った。

さすが「巨匠」たちの作る住宅はすごいわ。
住み心地をいかに大切にしているのがわかる。
コンセプチュアルな建築を否定はしないけど、住むにはこっちのほうがいい。個人的には。


この本にはコルビジェの住宅が2つ紹介されている。
「小さな家」と「休暇小屋」。

コルビジェといえばサヴォア邸、ユニテ・ダビタシオン、輝く都市…
と、まさに近代建築の主流そのもの。
そうやって近代建築をリードし続ける過激な構想の一方で、
彼が、人間のスケールに基づいた寸法を重要視していたこと。
それがこの2つの住宅から伝わってくる。
もちろん近代建築の要素もうまく混ぜつつ、というのがにくい。
どうも「住宅は住むための機械」という言葉だけが独り歩きしている感がある。


あと、この本で良いのはところどころに挿入されている、著者のスケッチ。
人柄(あまり知らないけど)がにじみ出ているような良いスケッチを描く。
つられて描きたくなる。

「住宅巡礼 続」というのもあるらしい。
ぜひ読みたい。
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by kado-kayo | 2008-06-19 21:04 |

「建築学」の教科書

本のレビュー再開再開。。。
感想程度に。
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「建築学」の教科書
著者:多数
出版:2003年

建築を学ぶ前、もしくは学び始めの人向けの本。
ゆえに、内容の濃さという点ではやや物足りないが、
著者のチョイスが意匠・構造・環境・歴史と幅広く、建築という分野の広さを再確認できる。

意匠以外の方々の文中には、アンチ「建築家」的な視点も多い。
そんな中、安藤忠雄・妹島和世なんかが同じ本の中で肩を並べているということが、内容とは関係なく面白い。
本書の内容の一貫性の無さのおかげ。


さて、面白いと思った項について。

松山巌 『小さき場のために』
肩書きが作家・評論家。それにしては結構的確な指摘をしているので、調べたら建築出身だった。なるほど。

「建物を設計する建築家、街をつくり上げる都市計画家などがはじめに考えることは、自分の好きな場所、気持ちのよい場所を発見し、それに具体的なものと寸法を与えることだ。」

事物の観察から秩序を発見し、自身のストックにする。これが初めのステップであると説く。
何気ない文ではあるが、自身の身体感覚に立ち戻ることの重要性に気づかされる。


木下直之 『お城も宮殿も原爆ドームも』
城の復元にあたって、どの時点を復元の対象にするのかという問題。何が本来の姿なのかという難しさ。
スタイルは古いが、20年に一度立て直すので物質的には常に新しい伊勢神宮。
原爆ドームは破壊されたがゆえにそこに意味が生じた。

このような例をいくつか挙げ、建物には、その建築当初からは想像もつかない様な意味が与えられることがあり、また、変貌し続けるのが当たり前なのだ、と説く。

設計者にはどうすることもできないことがある。
頑なに自身の建築を作品として扱うことはなんか滑稽。
ぐらいで受け取った。
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by kado-kayo | 2008-06-14 21:35 |
設計課題は昨年度で全て終わった。
ポートフォリオを作らねば、ということで引っ張り出して眺めてみる。

密度、形態。
とてもじゃないがそのままでは提出できない。
コンセプトに対してはそれほど抵抗を感じないが、
最終的に出来上がったものに対する嫌悪感ともいえる感情。

ふがいなさ、そして他者への嫉妬。焦り。醜い。

アウトプット力の足りなさを改めて痛感する。
インプットにより、確実に引き出しは増えてきてはいる。
しかし結局、それをアウトプットする力が身についていない。
足りない。アウトプットが足りない。数が足りない。
つまりは根性が足りない。まだまだ。

そして、アウトプット力を向上させる必要性が増すなか、
自分の中にアウトプットへの恐怖があると最近感じられる。
妙に自信が無い。
アイデア→かたち、このステップがやけに難しい。
考えるより手を動かすこと。考えすぎ。
これに尽きる。
考えて考えて考え抜いて、でも物が残っていなかったら、考えてないのと同じこと。
と自分に言い聞かせてみたり。
あーでも怖い。なんだこの臆病な男は。
なんでこんなに自信がないんだか。

いくらバップフレーズを覚えたところで指が動かねば意味が無い。
結局は練習量が物をいう、と。ジャズバンと一緒。
数こなす練習効くんですよ。まじで。はじめは半信半疑だったけど。
こんな単純なことを20歳超えて痛感するとか。…ね。遅いよ。君。

次。収穫。微小。
何に重きを置いて作ろうとしていたかがぼんやり見えてくる。
やはり事例を集めてそこから自己を分析、の方法が個人的には合ってる。
以前書いたように、瞬時に好みをはっきりさせることできない型なので。
事例の集合から、課題へのアプローチ方法の変遷が見えて面白い。
基本的には1つを発展させていく方法より、別の考え方との揺り戻しになってる。

「根性論・精神論なんてナンセンスざます」
と考えている時期が僕にもありました。と。
あー。物事、根性っすよ。ほんと。
できるだけスマートに、がコンセプトだった生き方が恥ずかしい。
泥臭さが必要。

汗臭さは勘弁。
あ、足臭いのもね。
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by kado-kayo | 2008-06-11 02:33 | 雑記

死んだブログ

昔見てたブログをなにげなく巡回したら、無くなってたり更新止まってたり。
単なる文字列なのに人の気配が消えたような感じがしてさみしい。
休止宣言があるところはまだしも、楽しげな記事とか何気ない日常の記事とかで止まってるのは、
急に街から人がみんないなくなってしまったような感じというか…
むしろ不気味ささえ感じる。

ブログの主がその後どうなったのか。。。
休止したブログの背後にそこで熱く語られていたことへの挫折とか、
その後いろいろうまくいってないとか、そういうものを感じて怖くなる。

まあ実際のところ、学生終わって単に忙しくなって気づけば放置、てのが大多数だとは思う。

そうだとしても、何か恐怖を感じさせるところが、死んだブログにはある。
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by kado-kayo | 2008-06-10 02:11 | 雑記

6月記念に

かなり久々の更新。

生きてます。
自炊、してます。
早起き、してます。

では。
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by kado-kayo | 2008-06-01 18:21 | 日記的